離れて暮らす親が認知症になったときに家族だからできること。老年精神専門医 長谷川洋さんインタビュー(下)

長谷川診療所院長として、認知症の診療を行っている老年精神専門医の長谷川洋さん。1970年代に「長谷川式認知症スケール」を開発し、認知症診療の第一人者として、認知症への理解を広げることに尽力された父長谷川和夫さんは2017年に自ら認知症であることを公表。2021年にご逝去されました、今回は、離れて暮らす親が認知症になったときに家族としてできることについて長谷川洋さんにご家族としてのご自身のご経験も踏まえてお話をお聞きしました。

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長谷川洋(はせがわひろし)さん
精神保健指定医、日本老年精神医学会専門医、日本精神神経学会専門医。
1995年聖マリアンナ医科大学卒業、同大学神経精神科入局。2003年より同大学東横病院精神科主任医長として勤務。2006年より長谷川診療所を開院。。2000年日本生物学的精神医学会国際学会発表奨励賞を受賞。現在、聖マリアンナ医科大学非常勤講師、東京医療学院大学非常勤講師、川崎市精神科医会監事、神奈川県精神神経科診療所協会副会長。
著書に「よくわかる高齢者の認知症とうつ病」長谷川和夫氏と共著【中央法規】、「認知症のケアマネジメント」石川進氏と共著【中央法規】がある。

親との関係性に合わせたサポート

皆さんそれぞれ親との関係性は違います。関係性は長年のことだから、変える事は難しいかもしれませんが、無理をせずできることから始めるといいのではないかと思います。

私が診察でお話することなんですけれど、もともとの親子の関係が悪いのに、優しい言葉をかけるのって難しい。でも、カードで書くことならできるという方もいらっしゃいます。誕生日や父の日・母の日、敬老の日などのイベントの時に「おめでとう」や「ありがとう」のメッセージをカードで伝える。言葉で伝えることに抵抗感があるとき、気が向いたらそういう方法もいいかもしれません。

一方で、親子関係が良い場合には、親身になって一生懸命になりすぎてしまうことがあります。良い関係だからこそ怒ってしまう、イライラしてしまうこともあると思うんですよね。

私は野球が好きなんですが、楽天や阪神で監督をされていた野村克也さんが「一流の選手は叱る」とおっしゃっていたんです。見込みがない選手には何も言わないけれど、一流の選手は叱るんだと。私たちは割とそういうところがあるかもしれませんよね。

子育てをしていらっしゃる方であれば自分の子どもには叱ってしまうけれど、よそのお子さんのことだと「大丈夫でしょ。ちゃんとやっているじゃない」とおおらかに考えられる。そのように私たちは一人ひとりハードルの高さを変えてしまうところがあります。

「認知症は暮らしの障害」と父も話していましたが、暮らしの障害ということは失敗することが多くなります。その失敗した体験を一緒に共有することは、せっかく今まで良好だった親子関係が、もしかしたら揺らいでしまうかもしれません。

病気のことを見すぎてしまうことで親子関係が悪くなってしまうはもったいないので、その点では親子関係が良好な方でも介護のプロができることはお任せして、できないことをできるだけ家族がするのがいいのではないかと思います。

プロの人ができないことと言えば、ゆったりと楽しい時間を共有することもその一つではないでしょうか。体調にもよると思うんですけれども、一緒にお酒を飲むとか、一緒に美味しいお菓子を食べるとか。そんな時間を家族がつくれたらいいですね。

私が個人的に思うのは、もっと父に昔の話を聞いておけばよかったなということです。父が亡くなってから父の部屋を整理していると、昔の写真やアルバムがたくさんあったんです。父が生きているときはあまりアルバムの中を見ることがありませんでした。

アルツハイマー型認知症は、すぐの記憶が思い出しにくくなります。海馬という脳の組織が委縮してダメージを受けることですぐの記憶を維持するのが難しくなるからです。でも、昔からの記憶(古い記憶)は海馬以外の大脳皮質というところが深く関係しているのではないかと言われていますので、昔の記憶は維持できていることもあると思うんですね。「忘れたよ」と言われたかもしれないけれど、聞いておけばよかったなと個人的には思っています。

役に立てている感覚が生きていく力になる

私は診察で病状の把握のために、「今日の日付っていつですか」とご本人に問診することがあるのですが、診察に付き添ってこられているご家族はわりと家でも同じように聞かれることがあるのではないかと思います。

でも、家族は日付を聞くよりは昔話を聞くとか、何か教えてもらう方がいいのではないかなと思います。「すぐの記憶は維持しにくいから、もしかしたら今日が何月何日かはわからないかもしれないけれど、わからなかったからといって、何かすごく不自由になるということもないかもしれない」と考えを変えてみる。

私たちは簡単なことを聞かれて答えられないとショックを受けますし、試されているというのは嫌な気持ちになるかもしれません。けれど、自分が得意なことや頑張っていた頃の昔の話を尋ねられるのは、教えてあげているんだ、役に立てているんだと感じられるのではないでしょうか。

私の父で言えば、認知症になって大変なこともあったと思うんですけど、一方で認知症になったことで、様々な方から取材をしていただいて、お話する機会を頂戴することができたっていうことは、「役に立てている」と感じたのではないかと思います。人の役に立ちたいとよく言っていた父でしたので。役に立てている感覚は、私たちが生きていく上ですごく力になることなんじゃないかなと思います。

変化する介護の暮らしの中では、三日坊主でも大丈夫

介護の状況はその時その時で変わっていくと思うんですよね。ですから、三日坊主でもいいんじゃないかと。一回やろうと思っても、やっぱりやめてもいいと思います。試しにやってみて、うまくいくことはそのまま続ければいいし、うまくいかないことはやめてもいいんじゃないかと思いますしね。

父がデイサービスのことで、ある取材では「日本のデイサービスは素晴らしいね!」と言っていて、「お風呂にも入れてもらえるし、殿様みたいな気分になれるね。みんな長谷川さん、長谷川さんってよくわかってくれていてね。デイサービスはいい」と言っていたこともあるし、NHKの取材の時は「デイサービスは行きたくないんだ!」とちょっと不機嫌な様子で映像に出ている場面もあったんですね。

これも私たちが三日坊主でいいのと一緒で、認知症の方もその時その時で気持ちは変わるものだと思うんです。「頑張ってみんなの迷惑にならないようにしよう!」とか「お医者さんもデイサービスをすすめてるし、頑張って行ってみるわ」って思う時もあれば、実際に行ってみたら「今日はあまり面白くなかった」とか「ぽつんと一人いて、どなたともお話しなくて、なんかつまらないな」「もうやめちゃおうかな」と思うとか。

いろんな感情が混じって、その時々で変わることもあるだろうし、そこは「そんな気持ちもあるんだよね」とご本人の気持ちを受け取りながら「じゃあ、デイサービスを他の曜日にできないか聞いてみようか」とか「別のところも行ってみようか」とか提案してもいいと思います。職員さんや利用者さんの中で、一人でも話しやすい人が見つかると楽しくなる方もいらっしゃると思います。

家族の方も介護サービスの利用に関して「一度行くって言ったんだから、みんなに迷惑をかけちゃうんだから、やめちゃダメだよ!」とかつい真面目に考えすぎてしまうと、注意したくなって、管理的になってしまうことがあるかもしれないんですけどね。ご本人も家族も完璧を目指さなくてもいいと思います。

家族は介護という神輿の先導に

私は、介護はお神輿を担ぐようなイメージがあります。一人でお神輿を担ぐことは不可能です。たとえ一人ではないとしても、ずっと家族がお神輿の一番重たいところを持ち続けることは難しいので、様々な人の手を借りたり、時には他の人と交代して休憩したり。ものすごく理想を言えば、子どもさんは中心になり過ぎてしまわずに、お神輿のの先導役になれればいいですね。「こっち曲がりますよ!」とか「カーブがあるから気を付けて」とか。認知症の病状のサポートは自分が中心じゃなくて、他の人の力を活用できないかなと考えられればいいと思います。

まとめ

長谷川洋さんはゆっくりと優しい口調でお話してくださいました。私はお話をお聞きして「介護はお神輿を担ぐようなもの」というお話がとても印象に残りました。インタビュー時は、カンヌ映画祭をしていたころだったので、「家族は主演にならずに監督になるのがいいと思います。監督が時々出演するのはいいかもしれませんが、介護の支援を配役して最終的な判断を下す役割がいいのでは」ともお話してくださり、共感しました。

介護=身の回りのお世話(食事介助、排泄介助、入浴介助)というイメージがありますが、電話一本、介護支援のかたとの連絡をとることも家族だからできる大切な介護だということ、離れて暮らす上で不可欠な介護サービスの導入に関しても、ご本人の気持ちを大切に「急がずに待つ」ことが大事だということに気づかせていただきました。

それぞれ家族の関係性は違いますし、事情もあります。離れて暮らすからこそ、お互いの生活を大切にして、家族だからこそできることを選択していくことが良好な関係を続けていくことにもつながると感じました。「お母さん、お父さんのために」「私がしないといけない」という気持ちを緩めることで、少しでもゆとりが生まれることを願っています。